8月15日は終戦の日(終戦記念日とも)。
1939年9月にドイツ軍のポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦は、1941年12月8日の日本軍によるマレー半島侵攻・真珠湾攻撃で太平洋戦争として激化。東南アジアで戦線を拡大するものの、1942年6月のミッドウェー海戦大敗から戦況が悪化。1945年3月10日の東京大空襲、4月1日の米軍沖縄本島上陸、8月6日の広島・8月9日の長崎への原子爆弾投下を受け、8月14日に無条件降伏を求めるポツダム宣言を受諾。8月15日正午の玉音放送で昭和天皇から終戦詔書が朗読され、日本の降伏・敗戦が発表されました。
終戦から68年。今では戦争の痕跡に触れる機会は少なくなりましたが、湘南・鎌倉の人気観光スポット「稲村ヶ崎(いなむらがさき)」には、戦争末期に米軍の本土上陸に備えて建設された、特別攻撃隊「伏龍(ふくりゅう)」の基地跡が残っています。

江ノ島と鎌倉の真ん中あたり、国道134号沿い、江ノ電稲村ヶ崎駅から徒歩3分ほどの「稲村ヶ崎公園(表記は稲村ケ崎、稲村ガ崎とも)」。行政的な名称は「鎌倉海浜公園稲村ヶ崎地区」で、丘陵を利用した広場や展望台から、相模湾越しに江ノ島や伊豆大島を眺めることができる、風光明媚なスポットです。

海岸から公園を見上げると、写真左の崖の右上に、砲台や機銃を装備する「銃眼(トーチカ)」を確認できます。さらに、中央の大きな穴は、手前にある横穴(写真右)から続いています。

下が横穴の入口。ツルハシなどで素彫りしたのでしょうか、掘削跡が荒々しく残っています。高校生の頃に入った記憶では、壕内はかがんで歩けるほどの高さがあり、20〜30メートル進むとT字路に。右の先は写真上でも紹介した海に面した穴へ(写真右)、左は次第に低くなり行き止まりとなります。

※崖の周囲や洞内は落石の危険があるため立ち入り禁止となっています。
この横穴は、米軍の本土上陸の足音が聞こえ始めた大戦末期に、「伏龍(伏竜とも)」を配備する基地として掘られたもの。伏龍とは、「神風(航空隊)」や「回天(人間魚雷)」と並び、「人間機雷」と称される特別攻撃隊(特攻隊)の人間兵器。空気ボンベを装着した潜水服を着用し、水中から棒の先につけた機雷で敵船を突く特攻部隊として編成されました。

伏龍の紹介を抜粋すると。。。
実際に出撃することなく終戦を迎えた伏龍。杜撰な装備や作戦を知った上で眺めると、稲村ヶ崎の壕が、戦争の無益さや空しさを伝えているように思えてきます。
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>「無条件降伏を求めるポツダム宣言を受諾」
とありますが、日本は無条件降伏ではなく、ポツダム宣言の受諾という形で、無条件ではなく「有条件降伏」をしたそうですよ。
ドイツでは政府も無くなった状態で無条件降伏で東西にも分割されましたが、日本の政府は当時も残っており、「日本軍は無条件降伏」をしましたが、日本政府は無条件降伏ではありませんでした。
日本は無条件降伏ではなく、条件付き降伏で「有条件降伏」だったそうです。13か条の内8か条は認められて。
皇紀2600年を超える日本の国体を守る為に、軍艦も殆ど撃沈された日本軍は、零戦による神風特別攻撃隊も作り戦ってくれたそうです。国と国体と守るために。
沖縄戦でも神風特別攻撃隊による特攻作戦で、米軍艦船は約300隻が撃沈破されて米軍司令官は「もうこれ以上、日本軍とは戦えない」と本国に打電したそうです。
日米戦争に関して、日本軍による真珠湾攻撃(1941年12月8日)の約10日前のハワイや西海岸での新聞には日本軍が「攻撃してくる」と当時のアメリカの新聞で報道されていたそうです(最近、在米日本人が当時の新聞記事を調べて確認済)。つまり、アメリカは日本軍が攻撃してくる事を事前に解析しており、罠に嵌められたそうです。
また、アメリカ軍は、ルーズベルト大統領のサイン承認済の事として、日本先制爆撃計画とフライング・タイガース(米軍による戦闘機とアメリカ軍人パイロット等の多数派遣)派遣を実施しており、アメリカ製の空飛ぶ要塞と言われた最先端爆撃機B17を150機、他に戦闘機300機と米軍パイロットを付けて義勇兵に偽装させて、飛行機のマークには(中国)国民党軍のマークを付けさせて日本軍と戦わせていたそうです。
日本先制爆撃計画とは、ルーズベルトが日本爆撃計画を承認してサインしたもので、東京・横浜・京都・神戸・大阪に奇襲攻撃を加えて焼き払えと、1941年10月に実施する計画だった。しかし、欧州戦争でヒットラーの進撃に対してイギリスがアメリカに爆撃機と戦闘機の支援を求めた為に、日本奇襲爆撃作戦は実施されなかったそうです(作戦暗号名:JB355)。